48神学

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あなたのアイドル論がちょっとだけ深くなるかもしれない5冊のおすすめ本

アイドルを偉そうに語るおっさん(俺です)の話というのは、いい年してアイドルにハマってしまった自分にとっての新鮮さを、現代アイドルの新しさ、特殊性と混同してしまっていることが多い(俺だ。俺だよ母さん)。

そういう語りにも体験談、信仰告白としての価値はあり、おもしろいのだが、アイドル論としてはやはり浅いというか、ありがちなところにとどまりがちである。

48Gが一番人気があったころは、評論家とか大学の先生とか、インテリがアイドルにハマる例も多かったが、こういう人たちが書いたり語ったりすることも、さすがインテリは使う言葉が高級だなと思うくらいで、基本的には同じようなものであった。

私も何か書くたびに、年季の入ったアイドルヲタクに「貴様がいる場所はわれわれが三千年前に通過した」と笑われているような気がしてならない。日々勉強です。

というわけで今回は、アイドルをより深くおもしろく語るために、このあたりを押さえておくといいんじゃないかと思われる基礎知識、視点を与えてくれる本を何冊か紹介したいと思います。

 

①笹山敬輔『幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記

 

幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記 (フィギュール彩)

幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記 (フィギュール彩)

 

 

②押田信子『兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

 

兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

 

この2冊を読むと、現代アイドルの新しさと思われている要素は、実は近代日本アイドルの伝統であることがわかる。

会いに行けるアイドルは、昔からいた。どのくらい昔かというと明治時代である。娘義太夫のヲタクたちはレスをもらい認知をもらうために現場に通った。当然、そのなかには厄介もいて、推しメンが乗った人力車を追いかけて自宅までついていったりもした(①)。

会いにいくアイドルも、昔からいた。

前の大戦中には、アイドルたちは兵士の慰問のために戦地に飛び、歌い踊ったのである(②)。

日本型アイドルの歴史をどこまで遡れるのかはわからない。しかし、少なくとも明治時代には我々のようなヲタクがおり、彼らに推されるアイドルが存在した。現代日本的アイドル文化の根っこの深さを学んでおきたい。

 

③永井咲季『宝塚歌劇 〈なつかしさ〉でつながる少女たち

 

宝塚歌劇 〈なつかしさ〉でつながる少女たち

宝塚歌劇 〈なつかしさ〉でつながる少女たち

 

 

あの宝塚歌劇も、大正時代の草創期には女学校の学芸会のようだと評された。

「兄ィさんが妹の芸術を見て楽しんでゐる風の態度で見」るものであり、「むかし膝であやした子が、もう学校の上級まで進んで」成長した姿を愛でるように楽しむものであった。宝塚の初期ファンは、おじさんとお兄さんたちであったのである。

このおじさんとお兄さんたちがなかなか厄介で、恋愛モノの演目をかけると純粋さが失われると言って文句をつけたり、メンバーがプロっぽいメイクをすると「女優臭い」と言って嫌がったりするので、機関紙『歌劇』の投稿欄では現代のSNSさながらの論争がつねに繰り広げられていた。

また、ヲタクのなかにはメンバーを「活動写真を観に誘ったり、鰻を御馳走したり娘と同じように可愛がるお友達」(厄介)もいるので、総合プロデューサーの小林一三みずから自制を訴えたことさえあったのである。

その宝塚歌劇が、時を経て女性ファンを中心に完成度の高いパフォーマンスで見せる集団に変化していったことは興味深い。そこには私設ファンクラブのリーダーが演者を送迎するような高度に成熟したファンコミュニティもある。アイドルの進化の先に何があるのか、を考えさせるのである。

ちなみに、著者の永井咲季先生は91年生まれ。前田敦子世代の研究者による一冊である。

 

④金成玟『K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

 

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

 

 

K-POPファンでもある社会学者によるK-POP概説書。

熱心に推すことと、冷静に論じることのバランスのとれた姿勢を学びたい。

別に評論家ごっこをするためではなく、ムラの外に伝わる言葉でアイドルの魅力を伝えること、すなわち、狭義の「推し事」のために、こういう姿勢って必要だと思うのです。

抑制した熱さが伝わる「あとがき」は、世間で後ろ指をさされがちな趣味を持つヲタクなら、「わかる」と膝を打ちまくること請け合い。これだけでも立ち読みしてみてください。

 

⑤鶴見俊輔『限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

 

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

 

 

現総監督は「生活に密着したアイドル」というコンセプトを唱えている。それと親和性の高いのが、鶴見俊輔の限界芸術論だ。

曰く、芸術には三種類ある。プロが作り、プロが鑑賞する純粋芸術。プロが作り、素人が享受する大衆芸術。そして、素人が作り、素人が享受する限界芸術である。

限界芸術というのは、生活と芸術とのキワにある芸術というくらいの意味である。おそらく、人類最初の芸術は限界芸術だった。生活の中で、洞窟の壁画や、神に捧げる詩、労働歌が生まれた。そこから芸術のプロや、それを批評するプロが分化していったと考えるのが自然である。

限界芸術のもっともわかりやすい例は祭りだ。祭りでは、村のなかで歌のうまい者が歌い、踊りのうまい者が踊る。しかし歌い手も踊り手もプロではない。それを見て村の衆は楽しみ、自らも歌や踊りに参加する。

日本式アイドルは、歌においてもダンスにおいても、プロとは言えないレベルにあることが多い。この点についてはいろいろな意味付けが行われているけれど、あれは「限界芸術」なのだと考えるとわかりやすい。彼女たちは、村の歌名人であり、わが村の踊りの名手なのである。アイドルとヲタクがつくる村、共同体の代表として歌い踊っているのだ。

アイドルビジネスの仕組みも、武道館なりドームなりといったより大きな祭りを目指して、村の衆みんなでリソースを積み上げていく過程と見ることもできる。普段は働いて富を蓄積し、非日常の祭りですべてを蕩尽する。アイドルとヲタクは、一緒に祭りを作り上げているのである。

私は、この構造のなかにヲタクが過激化する理由があると考えている。 

過激化というのは、暴れるとか違法行為に手を染めるとかいった意味では必ずしもない。そこに生きる意味を見出し、理想の実現を求める、という静かで本質的な過激化もある。マジということだ。

ヲタクはアイドルとともに作り上げる祭りに生きる意味を見出している。ヲタクは祭りの見物客ではない。祭りの当事者である。だから、アイドルヲタクは「うるさい」のも当然なのである。