48神学

Give me 大方の御批判と御教示。

名前だけでもおぼえて帰ってください。

48楽曲のあれが好きな人は少なくないと思われる。

あれというのは「君のことが好きだから」や「ポニーテールとシュシュ」や「大声ダイヤモンド」のあれである。
ぼくが好きなのは「2人乗りの自転車」とか「Glory days」とか、最近では「アイドル修業中」公演の「遠距離ポスター」。曲自体があれの名曲だが、田屋美咲のソロパート(僕の気持ちは予想外)がことさらによい。プール開きの日の空のごとき「抜け」がある。

AKBのシングル表題曲にはかつてあれが多かった。
「Baby! Baby! Baby!」から「言い訳Maybe」まではずっとあれである。最近は欅坂46の曲にあれが目立つようだ。

ぼくはあれが大好きなのだが、あれをなんと呼ぶのか最近まで知らなかった。たまたま読んだ本であれの名前を知った。

『鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー』というアンソロジーのなかの、「転身歌唱の近代」(中河伸俊)という論文です。

 

 

鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー

 

 

あれの名はCGP(cross-gendered performance)。日本語でジェンダー交差歌唱という。

以下、引用は「転身歌唱の近代」から。

 

 "男の歌"を女性歌手が歌う、あるいは、"女の歌"を男性歌手が歌うCGPは、いいかえれば、歌のシナリオである歌詞のジェンダーと歌い手のジェンダーとが一致していない歌唱のことである。

 

ようするに、48楽曲によくある「僕」の歌のことです。

あと、これはムード歌謡とか演歌によくあるやつですが、男性歌手が女歌を歌うのもCGPである(小林旭の「昔の名前で出ています」とか、内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」とか宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」とか)。

 

筆者の主に米英のポピュラー音楽についての知見の範囲でも、男が"女の歌"を歌う、もしくは、女が"男の歌"を歌う歌唱の事例を挙げるのはむつかしい。

 

流行歌の世界ではそのことをさす ことば もとくにないほどありふれた事柄であるジェンダー交差歌唱(cross-gendered performance ; CGP)は、比較文化的な視点から見ればじつは、日本のポピュラー音楽のきわだった特徴の一つだといえそうだ。

 

やすすの作品に限らず、今では女性アイドルが「僕」で歌う曲は珍しくない。あれは日本の歌謡曲に特徴的な手法なのだという。

では、なぜ日本の歌謡曲にはCGPが多いのか、どのようにしてCGPがはじまり、ひろがったのか、CGPはどんな効果をもたらしているのか。

といったあたりを、筆者の中河先生は幅広く論じている。興味がある人は読んでください(きっとお近くの公共図書館にもあります)。

ここでは、48楽曲との関係で興味深かった点をいくつか紹介しつつ、ぼくが考えたことを書きます。

 

CGP慣行の語り物起源説

質・量ともに、「CGPがもっとも栄えた時代」は1960〜75年、ちょうど高度経済成長期のころだという。

折しも演歌(a.k.a.艶歌)というカテゴリーが成立した時代であり、演歌の隆盛は、このジャンルで多用されるCGPの隆盛にもつながった。

では、なぜ演歌とCGPはマッチしたのか。

演歌というジャンルに、浪花節や義太夫といった「語り物」の表現法が「隠し味」として加わったことが関係しているのではないか、と筆者は推理する。
当時の流行歌をつくっていた歌手やスタッフは、子供のころから浪花節や義太夫を聞いて育っているから、それが音楽的素養の土台になっていた。

「語り物」というのは、三味線で弾き語りするんだけど、歌うだけじゃなく文字通り語るドラマ部分もある。

 

ドラマの部分で演者が透明なナレーターとなり、そのナレーターの語りに男女の登場人物の発言がはめこまれる。さらに、同じ芸能でも講談や落語の場合と違って、義太夫や浪花節では、男性だけでなく女性も演者になることを認められ、それどころか大きな人気を博してきた(中略)男が女を演じる、もしくは女が男を演じるという演者−登場人物間のクロスは、語り物の伝統の中ではふつうの事柄だった

 

あっ、あっ。と、太字部分を読んで声が出ましたね、ぼくは。(まあ太字にしたのはぼくなんですけど)

正直、浪花節とか義太夫についてまったく無知なので、語り物とは…とか書いてておっかなくてしょうがない自分ですが、たまたま明治の娘義太夫(女性が演じる義太夫)ブームについては知っていた。

日本近代演劇の研究者にしてアイドルヲタ、ケロリンでおなじみ内外薬品の若き社長でもある笹山敬輔先生の『幻の近代アイドル史』を読んでいたからである。

 

 

幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記

 

 

 

 

普通におもしろいのでおすすめである(研究者の書いた真面目な本なので、きっとお近くの公共図書館にもあります)。

この本に登場する日本アイドル界のパイオニアこそが、娘義太夫の竹本綾之助(もちろん女性)である。
12歳でデビュー、23歳まで活動した彼女は「娘義太夫のセンター」、「絶対的エース」であり(笹山先生がこう書いている)、東京に娘義太夫ブームを巻き起こした。このブームこそ、日本の近代アイドル史の第1章なのである。

「ドースル連」と呼ばれた娘義太夫ヲタは、はじめ学生中心、後にサラリーマンや職工が加わり、東京中の寄席を人力車ではしごしたという。今もいますね、現場をはしごするヲタク。
彼らは義太夫の芸というよりは、推しメンからのレス乃至ルックを一番の目当てとして現場に通い、サイリウムならぬ下足札を振り回し、ファンレターを書き、インターネットはなかったので新聞の投書欄でアンチと戦った。

ちなみにドースル連という呼称は、こいつらが曲のクライマックスで「ドースル、ドースル」としょうもないコールを発するからです。他にも「ヨウヨウ」「トルルー」などのコールがあったらしい。マジ意味わからんしキモい。いかにもヲタクって感じです。

明治期に流行した娘義太夫は、現代まで続くアイドル文化の要素をすでに実装していた。そしてそこには、前述の通りCGPもあったのである。

このように、義太夫を含む「語り物」では、CGPはごく普通に行われていた。「語り物」の影響で、演歌その他の歌謡曲でもCGPが一般化した。というのが中河先生の「CGP慣行の語り物起源説」である。
ラジオの構成作家時代、暇さえあればニッポン放送のレコード室にこもって歌謡曲のレコードを聴いていた やすす がこの伝統を継承し、いま48G他のアイドルポップスでCGPが第二の全盛期を迎えている…という、語り物→演歌&歌謡曲→アイドル曲、という流れはわかりやすい。

さらに、明治の娘義太夫ブームを「女性アイドル文化のあけぼの」と見るならば、CGP継承のもう一つのルートも浮かび上がってくる。

日本の女性アイドルは、その草創期から、CGPとは切っても切りれない関係にあった。48楽曲における「僕」の歌は、女性アイドル歌謡の原点回帰なのである。

 

"女心"を歌う演歌と"ヲタク心"を歌うアイドルソング

次の話題です。

ご存知のように、演歌では盛り場や酒場、そこで働く女性が題材となることが多い。

しばしば演歌の女うたのヒロインに擬された水商売の女性は、演歌系歌手の出発点や営業の場でもあったりもしたそうした各地の盛り場で、歌をジュークボックスや有線でかけたり、流しの伴奏やカラオケで歌ったりして、そのプロモートに一役買う人たちでもあった。おそらく、彼女たちに支持されるような形でおミズ系の”女心”を歌うことは、歌を流行らせるのに積極的な意義をもっただろう。

 

二枚目タイプの男性歌手がCGP(”女心”を歌う曲)を歌えば、こうした女性ファンからの「ロマンティックな対象化志向」に加えて、「登場人物の女性への同一化」も期待できる。「一粒で二度おいしい」効果が生ずるというわけです。
インフルエンサーである水商売の女性たちに刺さりやすい、というマーケティング上の効果もCGPは持っていたことになる。

現代の女性アイドルグループが歌うCGP(「僕」の歌)も、歌ってるアイドルちゃんがかわいい、好ち!(ロマンティックな対象化)と、「僕」が自分のことのようでエモい、という二方向からヲタク(圧倒的多数は男性)を殺そうとしている。

このマーケティング手法の起源は、盛り場で歌われた"女心"の歌なのである。

 

女性アイドルは「男の恋」を歌うか

CGPがもっとも栄えた1960〜1975年、男性歌手が歌うCGPは、基本的に恋愛の歌だった。

これに対して、

 

 女性歌手のCGPは、恋愛を歌わない。

 

女性歌手が歌う「男歌」は、恋愛を歌っていなかったという。

じゃあ何を歌っていたか。

"道"です。

 

「男のぞみをつらぬく時にゃ/敵は百万こちらはひとり」(畠山〔みどり〕の《出世街道》星野哲郎・詞》とか、「行くも住(とま)るも座るも臥すも/柔一すじ柔一すじ/夜が明ける」(美空〔ひばり〕の《柔》関沢新一・詞)とか、「流れ流れて東京を/そぞろ歩きは軟派でも/心にゃ硬派の血が通う」(竹越ひろ子の《東京流れ者》永井ひろし・詞)というように、女性歌手のCGP用に書かれた歌詞では、男の"道"、つまり評価されるべき生き方が打ち出される。

 

つまり、ラブソングじゃなくて自己啓発ソングを歌っていたということです。

こういう歌を、あえて女性歌手に歌わせることにはどんな効果があるのか。

たとえば、水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」(作詞・星野哲郎)は、「ぼろは着ててもこころの錦/どんな花よりきれいだぜ/若いときゃ二度ない/どんとやれ男なら/人のやれないことをやれ」と"道"を歌う典型的なやつである。

 

この歌のメッセージを、歌舞伎でいえば立役にあたるような堂々とした男性が歌えば、それは後進や成功していない人に対する成功者の説教となり、メッセージの透明度が下がる。"道"の歌を歌う男性の演者は男性のオーディエンスにとって、"人生"という"大勝負"での想像上の競争相手たりうる存在なのだ。いっぽう、若い女性の演者は、聞いている男性の「男性性」を脅かさないという意味で、理想の「援歌」歌手だといえる。

 

"道"の歌が説教くささを発することは避けがたい。
説教臭を脱臭し、描かれた男性主人公にオーディエンスが自己同一化しやすいようにする。そのための仕掛けこそが、女性歌手による歌唱だったというのである。

だから、女性歌手のCGPでは、恋愛ではなく"道"が中心的なテーマになる。このパターンは、「現在まで連綿と続いているようにみえる」と筆者はいう。ちなみにここでいう「現在」とは、論文が発表された1999年です。

さて、それから20年がたとうとしている現在、女性アイドルの曲では、ふつうに「僕」の恋愛が歌われるようになった。

"道"ではなく、恋愛をテーマにした女性CGPはすっかり一般化した。

ように見えるが、 実際のところどうなんでしょう。

48楽曲で、「僕」の恋愛を歌っているように見える曲は、本当に恋愛を歌っているんだろうか。

恋愛になぞらえて、ヲタクの"道"を歌っているのではないか。ヲタクとしてのあるべき生き方を啓発しているのではないか、とぼくは思う。

「君のことが好きだから」なんかは、完全にそうでしょう(だからこそ、素直に乗れる人にとっては非常にエモいし、ひねくれた人にとっては臭くて偽善的でたまらんわけです)。

あるいは、「言い訳Maybe」とか「青空片想い」とか「ポニーテールとシュシュ」とか「君はメロディー」とか、「僕の打ち上げ花火」とか「Only today」とかいった片恋や横恋慕の歌。
これらも「見返りを求めてはいけない」「報われなくても愛し続けるべし」といったドルヲタの"道"を歌っているのであり、だからこそエモい(当事者的高揚感がある)のではないか。

もちろん、中にはこういう解釈を許さない、リア充感が強い曲もある。
「12月のカンガルー」とか「ラブラドール・レトリバー」とかは、正真正銘の恋愛の歌なのでしょう。「推定マーマレード」とかな。

そうかと思えば、ラブソングを装うことなく、当世風の男(の子)の"道"を正面から歌った「Glory days」「虫のバラード」のような曲もある。

以上を考え合わせますと、ざっくりとした体感でしかないが、48GのCGPは、やはりまだ"道"の歌に偏っている。恋愛を歌った曲も、徐々に増えてきてはいるけれども。*1

"道"の歌から説教臭を抜くという伝統的な機能を十分に発揮している一方、「男の恋愛」を歌う仕掛けとしては、アイドルさんのジェンダー交差歌唱はまだまだ開拓の余地を残している、とぼくは思います。

 

以上、ずいぶん長々と話してしまいました。
他のことは全部忘れてもいいので、名前だけでもおぼえて帰ってください。CGP(Cross-gendered performance)、 ジェンダー交差歌唱です。

*1:恋愛の歌を聴くと、ついアイドルとヲタクの関係を歌ったものと解釈してしまいがちなヲタク特有の認知のゆがみは考慮する必要がある。