48神学

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フォークとロック、深夜ラジオで育ったカウンターカルチャーの申し子・秋元康はなぜ進歩的な人びとに嫌われるのか?

 争いの原因は誤解であり、誤解の原因はコミュニケーションの不全だ。話せばわかる。話してもダメなら、歌えば必ずわかり合える。
「僕たちは戦わない」で、「ウッホウッホホ」で、「ドレミファ音痴」で、最近だと「国境のない時代」で、やすすは繰り返しこのことを語っている。平和は目的であるだけでなく、それを実現する手段も、平和なコミュニケーション(話すことや歌うこと)でなければならない。やすすは非武装平和主義者である。

 一方、平和の敵(侵略者や独裁者など)を容赦なく粉砕することによってこそ平和は実現するという思想も世の中にはあり、だからこそ正義の戦争はあとを絶たない。武装した平和主義はしばしば現実的と評される。やすすはあくまでも非武装平和主義の理想を掲げ続ける。僕たちは戦わない。みんなで話し合えば、平和で、なおかつ自由な――人々の自己表現や自己実現が抑圧されない――世界が実現する。これはやすす一人の夢想ではない。この国の戦争を知らない子どもたちが共有した夢である。

 フォークとロック、深夜ラジオというカウンターカルチャーに育まれたやすすは、AKB48という自主プロジェクトを「みんなと仲良くする」という全方位外交戦略(実際、週刊文春ぐらいしか敵にまわしていない)によって成功させる。そして、実際に、ある種の解放と進歩を芸能界の一部にもたらしてしまった。その経緯については『AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論』を読めばわかるのでネタばらしはやめておく。
 よく「節操がない」と評されるやすすだが、私はそうは思わない*1。やすすには「みんなと仲良くすればうまくいく」という思想があり、それは成功体験に裏付けられている。

 みんなと仲良くする戦略は、血を見ないですむ戦略である。そこにこの戦略の美点がある。では欠点はなにか。みんなと仲良くしている限り、現状の力関係を否定することはできない。結局のところ、一番力の強い誰かの支配を肯定してしまうことになりがちである。ここに、戦後民主主義の限界がある*2

 民主主義と、自由と、平和。その普遍的な価値を心から信じる進歩的な人たちは、正義の戦争をやめない超大国への追従を当然の前提として肯定していた。その意味で、進歩的でありながら現状肯定的であり、反動的でもあるということになる。ようするに欺瞞がある。もちろん本人たちも欺瞞には気づいている。より現実的に、欺瞞なく理想を追求するにはどうしたらいいか、もう半世紀以上、苦悩しているのである。

 秋元康はカウンターカルチャーの申し子であると同時に、戦後民主主義の申し子である。やすすが胡散臭く見えるとき、そこに露呈しているのは戦後民主主義の胡散臭さであり、やすすが反動的に見えるとき、そこに露呈しているのは戦後民主主義の半同棲、もとい反動性である*3。そのことに本当は気づいているから、進歩的な人たちは秋元康を嫌う。
 あと、苦悩を見せないのも反感を買う理由なんでしょうね。

 

 

AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論

AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論

 

 

 

*1:人間は一貫性から逃れられるほど強くないと私は思うから。

*2:「和」の思想の限界なのかもしれない。

*3:戦後日本のフェミニズムは、もっとも進歩的であると自認していた男たち(新左翼の活動家)の女性蔑視を告発するところからはじまった。