48神学

Give me 大方の御批判と御教示。

フォークとロック、深夜ラジオで育ったカウンターカルチャーの申し子・秋元康はなぜ進歩的な人びとに嫌われるのか?

 争いの原因は誤解であり、誤解の原因はコミュニケーションの不全だ。話せばわかる。話してもダメなら、歌えば必ずわかり合える。
「僕たちは戦わない」で、「ウッホウッホホ」で、「ドレミファ音痴」で、最近だと「国境のない時代」で、やすすは繰り返しこのことを語っている。平和は目的であるだけでなく、それを実現する手段も、平和なコミュニケーション(話すことや歌うこと)でなければならない。やすすは非武装平和主義者である。

 一方、平和の敵(侵略者や独裁者など)を容赦なく粉砕することによってこそ平和は実現するという思想も世の中にはあり、だからこそ正義の戦争はあとを絶たない。武装した平和主義はしばしば現実的と評される。やすすはあくまでも非武装平和主義の理想を掲げ続ける。僕たちは戦わない。みんなで話し合えば、平和で、なおかつ自由な――人々の自己表現や自己実現が抑圧されない――世界が実現する。これはやすす一人の夢想ではない。この国の戦争を知らない子どもたちが共有した夢である。

 フォークとロック、深夜ラジオというカウンターカルチャーに育まれたやすすは、AKB48という自主プロジェクトを「みんなと仲良くする」という全方位外交戦略(実際、週刊文春ぐらいしか敵にまわしていない)によって成功させる。そして、実際に、ある種の解放と進歩を芸能界の一部にもたらしてしまった。その経緯については『AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論』を読めばわかるのでネタばらしはやめておく。
 よく「節操がない」と評されるやすすだが、私はそうは思わない*1。やすすには「みんなと仲良くすればうまくいく」という思想があり、それは成功体験に裏付けられている。

 みんなと仲良くする戦略は、血を見ないですむ戦略である。そこにこの戦略の美点がある。では欠点はなにか。みんなと仲良くしている限り、現状の力関係を否定することはできない。結局のところ、一番力の強い誰かの支配を肯定してしまうことになりがちである。ここに、戦後民主主義の限界がある*2

 民主主義と、自由と、平和。その普遍的な価値を心から信じる進歩的な人たちは、正義の戦争をやめない超大国への追従を当然の前提として肯定していた。その意味で、進歩的でありながら現状肯定的であり、反動的でもあるということになる。ようするに欺瞞がある。もちろん本人たちも欺瞞には気づいている。より現実的に、欺瞞なく理想を追求するにはどうしたらいいか、もう半世紀以上、苦悩しているのである。

 秋元康はカウンターカルチャーの申し子であると同時に、戦後民主主義の申し子である。やすすが胡散臭く見えるとき、そこに露呈しているのは戦後民主主義の胡散臭さであり、やすすが反動的に見えるとき、そこに露呈しているのは戦後民主主義の半同棲、もとい反動性である*3。そのことに本当は気づいているから、進歩的な人たちは秋元康を嫌う。
 あと、苦悩を見せないのも反感を買う理由なんでしょうね。

 

 

AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論

AKB48とニッポンのロック ~秋元康アイドルビジネス論

 

 

 

*1:人間は一貫性から逃れられるほど強くないと私は思うから。

*2:「和」の思想の限界なのかもしれない。

*3:戦後日本のフェミニズムは、もっとも進歩的であると自認していた男たち(新左翼の活動家)の女性蔑視を告発するところからはじまった。

残酷ショーの夏が終わりました。

高校生の野球大会を見るとき、わたしは思う。
「自分にも、こんな青春があったらよかった」と。

ほんとうのことを言うと、甲子園の高校生野球大会を見たことがないのでよくわからないのだが、高校生の野球が好きな人の口ぶり、目つきを見ていればだいたいわかる。「自分にも、こんな青春があったらよかった」と、高校生野球のファンは思っている。もっとダイレクトに、「自分も高校球児になりたかった」と思うこともある。暑さで頭がぼうっとしているときなど、「俺は、俺は高校球児になりたい!!」と思うことさえある。もう40歳なのに。類推ではあるが、きっとそうだろうと私にはわかる。

 

類推というのは、ヲタクも、アイドルを見ながらしばしば思うからだ。「自分にも、こんな青春があったらよかった」と。

仲間と支え合うこと、同時に競い合うこと、全力でなにかに打ち込むこと、その姿がキラキラと輝き、見る者を魅了すること、汗や涙、鼻汁や胃液までもが宝石にたとえられること……なんと祝福された青春であろうか。それにくらべて、自分の10代から20代にかけてのあの時間はなんだったのか。あれも青春と呼ぶのだろうか。字面で表現すると、「青春」というよりは「疊毟」みたいな感じだった。

アイドルを見て、「自分にも、こんな青春があったらよかった」とヲタクは思う。もっとダイレクトに、「自分もAKBになりたかった」と思うこともある。暑さでぼうっとしているときなど、「俺は、俺はAKBになりたい!!」と思うことさえある。劇場公演に入った後などに、たまにある。もう40歳の男だというのに。

高校生野球大会も、48Gも、たしかに残酷ショーである。私たちは、もとい、私は残酷ショーが好きだ。

残酷ショーの観客は、観客として楽しみながら、同時に、観客席にいるだけではどうしても満たされない欲望に気づいている。自分もこの残酷ショーに参加したい、という欲望である。「俺は、俺は高校球児になりたい!!」のであり、「俺は、俺はAKBになりたい!!」のだ。
闘技場で奴隷とライオンの戦いを見ていた市民たちは、「自分も奴隷になりたい」と思っただろうか。『カイジ』で鉄骨渡りを見物していたエスタブリッシュメントたちは、鉄骨を渡りたかったのだろうか。

 

 

「ただの◯◯」との戦い―『K-POP 新感覚のメディア』を読んだ

「K-POPのアイドルって、ただの児童虐待じゃない?」

 九年ほど前、日本の親しい友人とこのように話したことがある。

金成玟『K-POP 新感覚のメディア』(岩波新書)、以下同

 

金成玟先生はソウル大学作曲科の出身である。子どものころから音楽家を目指し、数時間のピアノ練習が日課であった。練習をサボると怒られるので、手ではピアノを弾きながらこっそりマンガを読んでいたこともあったという。

そんな経験をふまえて、金先生は言う。児童虐待という表現は「今でもそれが完全に間違った話だとは思わない。そもそもミュージシャンがスキルを身につけていく過程には、いくらか虐待的なところがあるのだから」。

韓国のアイドルは、デビュー前の数年間、練習生として徹底的なトレーニングを受ける。歌やダンスはもちろん、演技や外国語まで含む過酷なカリキュラムである。

とはいえ、金先生の心に今でもひっかかっているのは、「ただの」という表現だ。

 

10代以降以降ずっと韓国のポピュラー音楽を身近に感じていた者として、それが「ただの」と言い切ってしまえるほど単純なものではないということを、自分が感覚的にわかっているからだろう。

 

詳しくない人は、持っている情報が少ないからこそ、簡単にまとめて「ただの◯◯」と言える。

興味がない人は、その件に「ただの◯◯」というレッテルを貼って、とっとと脳のどこかに整理してしまいたい。

もちろん、悪意をもって「ただの◯◯」という表現を使い、ネガティブな面を強調したい人もいる。

 

「ただの○○」を無視できないのは、それがたいていの場合、「完全に間違った話ではない」からだ。まったくの言いがかり、明らかに事実に反することなら、事実を突きつけて反論することは比較的容易だ。

間違ってはいないけど、そんなに簡単ではない、という話に反論するためには、たくさんの言葉が必要である。

しかも、たくさんの言葉を並べたところで、「ただの○○」と言い放った当人、「ただの◯◯」だと聞いて納得してしまった人々がきちんと耳を傾けてくれる保証もない。

ここに「ただの○○」のたちの悪さがある。

ぼくも、「ただの○○」とさんざん言われてきた・言われているグループ(AKB48グループといいます)を応援しているので金先生の気持ちがよくわかります。

 

そこで、「ただの○○」という低コストで効果的な攻撃に対応すべく、こちらも同様の論法を用いるというのはどうだろうか。

たとえば、「あの手の批判は、ただのやっかみだ」「ただの私怨だ」「ただ叩きたいだけの連中の言うことだから」というように。もっと省エネを徹底し、「外野(何もわかってないやつ)の言うことは、無視」を決め込むやり方もある。

人生は有限なので、こうした省エネも間違いなく必要である。

だがしかし、省エネにとどまっている限り、「ただの」ではすまされたくない複雑な部分を外部に理解してもらうことはできない。放っておいたら、あまりにも単純化された、あまりにも一面的な「ただの◯◯」が社会通念になってしまうかもしれない。

 

ここで私は、「ただの」とは程遠い複雑なK-POPの世界を、その内部と外部をつなぐいろいろな感覚、大きな物語と小さな物語が混ざりあったさまざまな欲望をつうじて考えようとした。

 

本一冊分の言葉によって、「ただの」に対抗する。これが金先生のとった方法である。

 

言葉を尽くして「ただの◯◯」に対抗するという戦いは、守る側が圧倒的に不利である。攻撃側は無知、無関心、不勉強をも武器にできるのに対し、こちらは情報収集の範囲を広げ、言葉の技術を鍛え、複雑な細部を言語化するために時間と手間をかけなくてはいけないのだから。

 

この絶対的不利を埋め合わせるものは、唐突で大変恐縮ですが、愛です!

愛というのが嘘くさければ、渇望だ。世間が「あんなもん、ただの○○だろ」と切り捨てるものでも、それなしでは生きられないという絶対的なNEEDSだ。

票の数は愛だが、言葉の数も愛なのである。本を書くような仕事をしている人でなくても、職場の飲み会でだって言葉は使います。

 

好きなもののために言葉を尽くすなんていう面倒なことはしたくない人でも、「ただの○○」という切り捨て方を自分はしない、という選択はできる。

よく知らない何かが他人にとって愛の対象なら、雑なことを言うよりはいったん沈黙してその人の話を聞いてみるほうがよい。

 

最後になりますが、『K-POP 新感覚のメディア』はこんな本です。以下カバーの紹介文より。

 

BTS、TWICE、EXO……日韓関係の悪化とともに韓流ブームは去ったと思っていたら、いつの間にか若者たちK-POPに夢中になっていた。日本のみならず世界をも魅了するK-POPの魅力とは何なのか。グローバルなトレンドとポップな欲望が交錯するソーシャルメディア時代の音楽空間を解き明かす。

 

2011年末の紅白歌合戦にはK-POPのグループが3組出場した。その後は2017年のTWICEまで、K-POPミュージシャンは出場していない。ちなみに2012年は前田敦子が卒業した年であり、『オックスフォード英語辞典』に「K-POP」の項目が立てられたのもこの年だという。

あっちゃんが卒業した後の6年間、ぼくはあっという間だったと感じるけどみなさんはどうですか。その間にあちらの世界では何が起きていたのか。スゲーことが起きていたのである。PRODUCE48でK-POPに興味が湧いた方にも、PRODUCE48への参加には納得してねえぞという方にもおすすめします。

 

 

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

 

 

 

 

名前だけでもおぼえて帰ってください。

48楽曲のあれが好きな人は少なくないと思われる。

あれというのは「君のことが好きだから」や「ポニーテールとシュシュ」や「大声ダイヤモンド」のあれである。
ぼくが好きなのは「2人乗りの自転車」とか「Glory days」とか、最近では「アイドル修業中」公演の「遠距離ポスター」。曲自体があれの名曲だが、田屋美咲のソロパート(僕の気持ちは予想外)がことさらによい。プール開きの日の空のごとき「抜け」がある。

AKBのシングル表題曲にはかつてあれが多かった。
「Baby! Baby! Baby!」から「言い訳Maybe」まではずっとあれである。最近は欅坂46の曲にあれが目立つようだ。

ぼくはあれが大好きなのだが、あれをなんと呼ぶのか最近まで知らなかった。たまたま読んだ本であれの名前を知った。

『鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー』というアンソロジーのなかの、「転身歌唱の近代」(中河伸俊)という論文です。

 

 

鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー

 

 

あれの名はCGP(cross-gendered performance)。日本語でジェンダー交差歌唱という。

以下、引用は「転身歌唱の近代」から。

 

 "男の歌"を女性歌手が歌う、あるいは、"女の歌"を男性歌手が歌うCGPは、いいかえれば、歌のシナリオである歌詞のジェンダーと歌い手のジェンダーとが一致していない歌唱のことである。

 

ようするに、48楽曲によくある「僕」の歌のことです。

あと、これはムード歌謡とか演歌によくあるやつですが、男性歌手が女歌を歌うのもCGPである(小林旭の「昔の名前で出ています」とか、内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」とか宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」とか)。

 

筆者の主に米英のポピュラー音楽についての知見の範囲でも、男が"女の歌"を歌う、もしくは、女が"男の歌"を歌う歌唱の事例を挙げるのはむつかしい。

 

流行歌の世界ではそのことをさす ことば もとくにないほどありふれた事柄であるジェンダー交差歌唱(cross-gendered performance ; CGP)は、比較文化的な視点から見ればじつは、日本のポピュラー音楽のきわだった特徴の一つだといえそうだ。

 

やすすの作品に限らず、今では女性アイドルが「僕」で歌う曲は珍しくない。あれは日本の歌謡曲に特徴的な手法なのだという。

では、なぜ日本の歌謡曲にはCGPが多いのか、どのようにしてCGPがはじまり、ひろがったのか、CGPはどんな効果をもたらしているのか。

といったあたりを、筆者の中河先生は幅広く論じている。興味がある人は読んでください(きっとお近くの公共図書館にもあります)。

ここでは、48楽曲との関係で興味深かった点をいくつか紹介しつつ、ぼくが考えたことを書きます。

 

CGP慣行の語り物起源説

質・量ともに、「CGPがもっとも栄えた時代」は1960〜75年、ちょうど高度経済成長期のころだという。

折しも演歌(a.k.a.艶歌)というカテゴリーが成立した時代であり、演歌の隆盛は、このジャンルで多用されるCGPの隆盛にもつながった。

では、なぜ演歌とCGPはマッチしたのか。

演歌というジャンルに、浪花節や義太夫といった「語り物」の表現法が「隠し味」として加わったことが関係しているのではないか、と筆者は推理する。
当時の流行歌をつくっていた歌手やスタッフは、子供のころから浪花節や義太夫を聞いて育っているから、それが音楽的素養の土台になっていた。

「語り物」というのは、三味線で弾き語りするんだけど、歌うだけじゃなく文字通り語るドラマ部分もある。

 

ドラマの部分で演者が透明なナレーターとなり、そのナレーターの語りに男女の登場人物の発言がはめこまれる。さらに、同じ芸能でも講談や落語の場合と違って、義太夫や浪花節では、男性だけでなく女性も演者になることを認められ、それどころか大きな人気を博してきた(中略)男が女を演じる、もしくは女が男を演じるという演者−登場人物間のクロスは、語り物の伝統の中ではふつうの事柄だった

 

あっ、あっ。と、太字部分を読んで声が出ましたね、ぼくは。(まあ太字にしたのはぼくなんですけど)

正直、浪花節とか義太夫についてまったく無知なので、語り物とは…とか書いてておっかなくてしょうがない自分ですが、たまたま明治の娘義太夫(女性が演じる義太夫)ブームについては知っていた。

日本近代演劇の研究者にしてアイドルヲタ、ケロリンでおなじみ内外薬品の若き社長でもある笹山敬輔先生の『幻の近代アイドル史』を読んでいたからである。

 

 

幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記

 

 

 

 

普通におもしろいのでおすすめである(研究者の書いた真面目な本なので、きっとお近くの公共図書館にもあります)。

この本に登場する日本アイドル界のパイオニアこそが、娘義太夫の竹本綾之助(もちろん女性)である。
12歳でデビュー、23歳まで活動した彼女は「娘義太夫のセンター」、「絶対的エース」であり(笹山先生がこう書いている)、東京に娘義太夫ブームを巻き起こした。このブームこそ、日本の近代アイドル史の第1章なのである。

「ドースル連」と呼ばれた娘義太夫ヲタは、はじめ学生中心、後にサラリーマンや職工が加わり、東京中の寄席を人力車ではしごしたという。今もいますね、現場をはしごするヲタク。
彼らは義太夫の芸というよりは、推しメンからのレス乃至ルックを一番の目当てとして現場に通い、サイリウムならぬ下足札を振り回し、ファンレターを書き、インターネットはなかったので新聞の投書欄でアンチと戦った。

ちなみにドースル連という呼称は、こいつらが曲のクライマックスで「ドースル、ドースル」としょうもないコールを発するからです。他にも「ヨウヨウ」「トルルー」などのコールがあったらしい。マジ意味わからんしキモい。いかにもヲタクって感じです。

明治期に流行した娘義太夫は、現代まで続くアイドル文化の要素をすでに実装していた。そしてそこには、前述の通りCGPもあったのである。

このように、義太夫を含む「語り物」では、CGPはごく普通に行われていた。「語り物」の影響で、演歌その他の歌謡曲でもCGPが一般化した。というのが中河先生の「CGP慣行の語り物起源説」である。
ラジオの構成作家時代、暇さえあればニッポン放送のレコード室にこもって歌謡曲のレコードを聴いていた やすす がこの伝統を継承し、いま48G他のアイドルポップスでCGPが第二の全盛期を迎えている…という、語り物→演歌&歌謡曲→アイドル曲、という流れはわかりやすい。

さらに、明治の娘義太夫ブームを「女性アイドル文化のあけぼの」と見るならば、CGP継承のもう一つのルートも浮かび上がってくる。

日本の女性アイドルは、その草創期から、CGPとは切っても切りれない関係にあった。48楽曲における「僕」の歌は、女性アイドル歌謡の原点回帰なのである。

 

"女心"を歌う演歌と"ヲタク心"を歌うアイドルソング

次の話題です。

ご存知のように、演歌では盛り場や酒場、そこで働く女性が題材となることが多い。

しばしば演歌の女うたのヒロインに擬された水商売の女性は、演歌系歌手の出発点や営業の場でもあったりもしたそうした各地の盛り場で、歌をジュークボックスや有線でかけたり、流しの伴奏やカラオケで歌ったりして、そのプロモートに一役買う人たちでもあった。おそらく、彼女たちに支持されるような形でおミズ系の”女心”を歌うことは、歌を流行らせるのに積極的な意義をもっただろう。

 

二枚目タイプの男性歌手がCGP(”女心”を歌う曲)を歌えば、こうした女性ファンからの「ロマンティックな対象化志向」に加えて、「登場人物の女性への同一化」も期待できる。「一粒で二度おいしい」効果が生ずるというわけです。
インフルエンサーである水商売の女性たちに刺さりやすい、というマーケティング上の効果もCGPは持っていたことになる。

現代の女性アイドルグループが歌うCGP(「僕」の歌)も、歌ってるアイドルちゃんがかわいい、好ち!(ロマンティックな対象化)と、「僕」が自分のことのようでエモい、という二方向からヲタク(圧倒的多数は男性)を殺そうとしている。

このマーケティング手法の起源は、盛り場で歌われた"女心"の歌なのである。

 

女性アイドルは「男の恋」を歌うか

CGPがもっとも栄えた1960〜1975年、男性歌手が歌うCGPは、基本的に恋愛の歌だった。

これに対して、

 

 女性歌手のCGPは、恋愛を歌わない。

 

女性歌手が歌う「男歌」は、恋愛を歌っていなかったという。

じゃあ何を歌っていたか。

"道"です。

 

「男のぞみをつらぬく時にゃ/敵は百万こちらはひとり」(畠山〔みどり〕の《出世街道》星野哲郎・詞》とか、「行くも住(とま)るも座るも臥すも/柔一すじ柔一すじ/夜が明ける」(美空〔ひばり〕の《柔》関沢新一・詞)とか、「流れ流れて東京を/そぞろ歩きは軟派でも/心にゃ硬派の血が通う」(竹越ひろ子の《東京流れ者》永井ひろし・詞)というように、女性歌手のCGP用に書かれた歌詞では、男の"道"、つまり評価されるべき生き方が打ち出される。

 

つまり、ラブソングじゃなくて自己啓発ソングを歌っていたということです。

こういう歌を、あえて女性歌手に歌わせることにはどんな効果があるのか。

たとえば、水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」(作詞・星野哲郎)は、「ぼろは着ててもこころの錦/どんな花よりきれいだぜ/若いときゃ二度ない/どんとやれ男なら/人のやれないことをやれ」と"道"を歌う典型的なやつである。

 

この歌のメッセージを、歌舞伎でいえば立役にあたるような堂々とした男性が歌えば、それは後進や成功していない人に対する成功者の説教となり、メッセージの透明度が下がる。"道"の歌を歌う男性の演者は男性のオーディエンスにとって、"人生"という"大勝負"での想像上の競争相手たりうる存在なのだ。いっぽう、若い女性の演者は、聞いている男性の「男性性」を脅かさないという意味で、理想の「援歌」歌手だといえる。

 

"道"の歌が説教くささを発することは避けがたい。
説教臭を脱臭し、描かれた男性主人公にオーディエンスが自己同一化しやすいようにする。そのための仕掛けこそが、女性歌手による歌唱だったというのである。

だから、女性歌手のCGPでは、恋愛ではなく"道"が中心的なテーマになる。このパターンは、「現在まで連綿と続いているようにみえる」と筆者はいう。ちなみにここでいう「現在」とは、論文が発表された1999年です。

さて、それから20年がたとうとしている現在、女性アイドルの曲では、ふつうに「僕」の恋愛が歌われるようになった。

"道"ではなく、恋愛をテーマにした女性CGPはすっかり一般化した。

ように見えるが、 実際のところどうなんでしょう。

48楽曲で、「僕」の恋愛を歌っているように見える曲は、本当に恋愛を歌っているんだろうか。

恋愛になぞらえて、ヲタクの"道"を歌っているのではないか。ヲタクとしてのあるべき生き方を啓発しているのではないか、とぼくは思う。

「君のことが好きだから」なんかは、完全にそうでしょう(だからこそ、素直に乗れる人にとっては非常にエモいし、ひねくれた人にとっては臭くて偽善的でたまらんわけです)。

あるいは、「言い訳Maybe」とか「青空片想い」とか「ポニーテールとシュシュ」とか「君はメロディー」とか、「僕の打ち上げ花火」とか「Only today」とかいった片恋や横恋慕の歌。
これらも「見返りを求めてはいけない」「報われなくても愛し続けるべし」といったドルヲタの"道"を歌っているのであり、だからこそエモい(当事者的高揚感がある)のではないか。

もちろん、中にはこういう解釈を許さない、リア充感が強い曲もある。
「12月のカンガルー」とか「ラブラドール・レトリバー」とかは、正真正銘の恋愛の歌なのでしょう。「推定マーマレード」とかな。

そうかと思えば、ラブソングを装うことなく、当世風の男(の子)の"道"を正面から歌った「Glory days」「虫のバラード」のような曲もある。

以上を考え合わせますと、ざっくりとした体感でしかないが、48GのCGPは、やはりまだ"道"の歌に偏っている。恋愛を歌った曲も、徐々に増えてきてはいるけれども。*1

"道"の歌から説教臭を抜くという伝統的な機能を十分に発揮している一方、「男の恋愛」を歌う仕掛けとしては、アイドルさんのジェンダー交差歌唱はまだまだ開拓の余地を残している、とぼくは思います。

 

以上、ずいぶん長々と話してしまいました。
他のことは全部忘れてもいいので、名前だけでもおぼえて帰ってください。CGP(Cross-gendered performance)、 ジェンダー交差歌唱です。

*1:恋愛の歌を聴くと、ついアイドルとヲタクの関係を歌ったものと解釈してしまいがちなヲタク特有の認知のゆがみは考慮する必要がある。

「いまを肯定したい君へ」

ナゴヤドームでは昼夜とも下口ひなな席にいた。

 

昼公演のセットリストには、NO NAMEの「希望について」と「この涙を君に捧ぐ」が入っていた。
「のなめナンバーを2曲やって、どっちにもオリメンの三田麻央が出てこないってどういうことだよクソ運営が?!」
キレかけたが、確認してみたら三田さんは今回の総選挙には不参加なのであった。
運営のみなさん、心のなかでとはいえ、クソ呼ばわりしてしまってすみませんでした。

 

 

 

心から喜んでいた三田さんにも申し訳ない。無知による誤解でキレるおじさんとかホント恥ずかしい、ホント気をつけたいです。いいえ、気をつけます。

ところで総選挙スピーチあるあるなんですが、「来年の総選挙では」と言いかけたメンバーが「来年も総選挙があるとしたら」と訂正するくだりが毎回ある。
なぜかはわからないが、「来年もやるという前提で話してはいけない」と運営からメンバーに言い聞かせているのであろう。

メンバーの言葉づかいから禁止語が推察される例は他にもあって、たとえば「ヲタク」がそうだ。彼女たちは必ず「ファンの方」とか「ファンの皆さん」と言う。ヲタクは蔑称だと感じる人もいるからだろう。
だから、5位に入った船長・岡田奈々が、「48グループヲタクの皆さん!」と呼びかけた時には驚いた。会場全体が一瞬、おかしな雰囲気になった。
この変な雰囲気をきっかけに、荻野由佳が変性意識状態に突入。おりから体力の限界を迎えていた松井珠理奈がおぎゆかにチャネリングして暴走したのがあのスピーチであった。ように、ぼくには見えた。

 

松井珠理奈は、「みんなさみしそう」「メンバーがさみしい姿を見たくない」と言っていた。

「AKB48グループは勢いがないと言われてしまうことがある。私たちの世代の頑張りが足りないせいで……」と言う総監督・横山由依。

「新しいグループや輝かしい過去と比べられて、メンバーみんなで悔しい思いをしている時がある」「応援してくださるファンの皆さんの期待にもなかなか応えられていない」と言う高橋朱里。

岡田奈々は、「AKB48のシングル選抜を決める選挙なのに、AKBのメンバーがトップを争うことができない状況が、とても悔しい」と言った。

「全盛期のAKB48と言われていたあの時代を、私が作っていきたいなと思いました」という荻野由佳の発言も、いまの48Gをよしとしていない点では前の三つと共通している。

一連の現状否定的な発言を受けての松井珠理奈の感想が「みんなさみしそう」だった。そして彼女は、後輩たちの否定を否定して宣言する。「今の48グループが一番最高です」と。

もう何日も寝られていなかったそうで、彼女はあきらかにおかしかった。たしかにおかしかった。だからこそ巧妙な嘘はつけないだろう。少なくとも、今の48Gを肯定したいという気持ちに嘘はないだろう。

「全盛期」からグループにいる彼女が、「今の48グループが一番最高です」と言ってくれたのがぼくはとても嬉しかった。

松井珠理奈のスピーチを聞いて思い出したのが、もうずいぶん前に読んだ、雑誌の特集記事である。正確にいうと、その特集のタイトルである。

 

 

クイック・ジャパン100

 

『AKB0048』特集の題名が、なぜ「いまを肯定したい君へ」なのかと言うと、このアニメは伝説(過去)のAKB48メンバーの「襲名」を目指す、まだ何者でもない研究生たちの、「いま」の物語だから、である。
で、物語のなかの「いま」に、現実の「いま」(2012年はじめ)が重ねられているという感じになっている。

ひさびさに読み返してみて気づいたのだが、記事には「取材・文=さやわか」とクレジットされていた。『AKB商法とは何だったのか』という、すごく面白い本を書いた評論家のさやわかさんです。
特集の冒頭についているリード文も、おそらく同氏によるものだろう。これが、1行目からすごい。

もう、僕らには何も残されていないのだろうか?

何もかも、終わってしまったのか?

 

これ、2012年2月の記事なんですよ。「真夏のSounds good!」の年ですよ。ドームコンがあった2012年ですよ?

むしろまだ何者でもないものが、

何者かになるために

努力することがドラマの中心だ。

そして本当はそれこそが、

現実のAKB48の本質でもあるのだ。

 

何も終わりはしないのだ。

過去を受け入れて、未来へと繋げていれば。

彼女たちは、僕たちは、そのために生きる。

終わりを超えて、終わらない物語が、いま始まる。

 

まるで、ナゴヤドームを受けて書かれたかのような文章である。
明敏な人は、この頃とっくに「終わりのはじまり」というやつを感じていたのであろうか。ぼくはといえばまだ劇場公演も見たことがない初心者で、毎日が「AKB48最高(まだ劇場公演に入ったことないけど)!!」でしたけれども。

特集には、やすすのインタビューも収録されている。さやわか氏の「終わらない物語」論に呼応した御大はこう断言している。

 

 

そもそもAKBの面白さって継続性なんです。

 

「秋元康(企画・監修)インタビュー『2012年のAKB48の大きな推進力が、このアニメであることは間違いない』」

 

そういえば横山総監督は、スピーチで「みなさんの日常に寄り添えるグループでいられるように」と語っていた。
とにもかくにも続いていかないと、ファンの日常に寄り添うことはできない。「AKBの面白さは継続性」だから、「日常に寄り添うアイドルグループAKB48」というコンセプトも生まれてくるのである。

 

10回目の総選挙に臨んだ松井珠理奈は全力で48Gの いま を肯定しようとしたのだった。

全力すぎて、変な感じになってしまったのだった。

ぼくは、新しい女王が、自己否定感の強い後輩たちを慮ってくれたことがうれしかった。
もちろん、48Gのいまを否定した後輩たちも、肯定したいからこそ否定したのだということはわかっている。

いつも文句ばっかり言ってるヲタクだって(君のことだが)、本当は いま を肯定したいんだろ?

それがわかっているから松井珠理奈は言った。

「(いまを肯定したい君へ。)いまの48グループが一番最高です」と。

ぼくもそう思いますよ。

宮脇咲良はHKT48のエースでもなく、選抜AKB48のエースでもなく、史上初の「48Gのエース」だと思うし。
向井地美音は前総監督や現総監督のようにはなれないと言うけれど、もしTVチャンピオンが健在で「48王決定戦」があったら優勝すると思うし、ヲタクとしての教養と視野を持った総監督がついに現れるかも、と思うと胸が熱い。

あと、松井珠理奈さん。あなただって、篠田麻里子さんのようにタフなアイドルにならなくていいんだよ。
寝てなくても最高のパフォーマンスを見せるのもアイドルだが、「人は寝ないとおかしくなる」とみんなに思い出させるのだって最高のアイドルだ。むしろ今日的である。

宮脇咲良は指原莉乃にはなれず、向井地美音は高橋みなみにはなれず、いまのAKB48はあの頃のAKB48にはなれない。誰も自分以外にはなれないが、それでも何かが受け継がれていく。

 

 

 

 帰り道、金山から尾頭橋まで移動するのに3回電車を間違えた。酒は飲んでいなかった。
あの日は何かがどうかしていたと思う。ドーム球場の気圧がどうかしていたのかもしれない。

(メンバーのスピーチはモデルプレスと朝日新聞デジタルの起こしを参照しましたが、自分の記憶にしたがって微調整したので、間違っている部分は筆者の記憶違いです) 

 

 

 

 

 

ぼくからのお知らせです

13期ヲタのみなさんにインタビューさせていただいて、それをまとめた記事が、ほぼ月刊48ジャーナルWebさんに明日から掲載されます。

www.48journal.com

 

タイトル通りの内容なんですが、目次を紹介しておきますと、

 

第1回 「はじめに / AKB48劇場御中 / 野田組 / 佐藤妃星生誕祭」

第2回 「光と影の夏 / #13期オタ会 / 北澤早紀 / もう、これはできないな。」

第3回 「ぶちかませ / 「企画書片手に乗り込んできましたよ」 / 開演 / 「秋元さんって、あんな顔するんだ」

 

こんな感じです。

また、この記事の関連企画で、ニコ生配信もやります。

live.nicovideo.jp

 

アイコンには触れないでください。

こちらは13期ヲタのみなさんをお招きして、記事には書ききれなかったお話などもうかがえればと思っております。アイコンには触れないでください。

どちらも、13期の話というよりも、48Gの未来の話をしたつもりですし、するつもりです。

ご高覧のほど、よろしくお願いいたします。

 

恋愛禁止ルールを設けるのは誤りであることの神学的論証

1.教条的な論証

アイドルは恋愛をしない。

ありえない行為を禁止することはできない。

よって、恋愛禁止ルールを設けるのは誤りである。

 

2.実質的な論証

恋愛禁止ルールがなくても、「アイドルは恋愛をしない」という信仰にもとづいて活動するアイドルはおり、その姿勢を支持して応援するファンもいる。

恋愛禁止ルールがなくなっても、「アイドルは恋愛をしない」という信仰をもつファンはいなくならないし、その期待にこたえようと考えるアイドルはかならずあらわれる。

「アイドルは恋愛をしない」という信仰は、恋愛禁止ルールがなくても市場原理によって守られる。

むしろ、恋愛禁止ルールは「恋愛は自由」という市民社会の良識と信仰との摩擦を高める逆ローションの役割を演じてしまっている。

恋愛禁止ルールは、「アイドルは恋愛をしない」という信仰の市民社会への侵犯ととらえられ、信仰自体への攻撃を誘発しているのである。

日本の人権、まだ歴史が浅いし競技人口も少ねぇから「人権とか弱い」って思ってるやつ多いけど、本場の人権はヤバい。超強い。黒船が来たらマジ一発でやられる。

よって、恋愛禁止ルールを設けるのは誤りである。

 

3.情緒的な論証

恋愛禁止ルールがあるから恋愛をしないアイドルと、「アイドルは恋愛をしない」という信仰を共有できるアイドルと、どっちを推したいのかって話ですよ。