48神学

Give me 大方の御批判と御教示。

名前だけでもおぼえて帰ってください。

48楽曲のあれが好きな人は少なくないと思われる。

あれというのは「君のことが好きだから」や「ポニーテールとシュシュ」や「大声ダイヤモンド」のあれである。
ぼくが好きなのは「2人乗りの自転車」とか「Glory days」とか、最近では「アイドル修業中」公演の「遠距離ポスター」。曲自体があれの名曲だが、田屋美咲のソロパート(僕の気持ちは予想外)がことさらによい。プール開きの日の空のごとき「抜け」がある。

AKBのシングル表題曲にはかつてあれが多かった。
「Baby! Baby! Baby!」から「言い訳Maybe」まではずっとあれである。最近は欅坂46の曲にあれが目立つようだ。

ぼくはあれが大好きなのだが、あれをなんと呼ぶのか最近まで知らなかった。たまたま読んだ本であれの名前を知った。

『鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー』というアンソロジーのなかの、「転身歌唱の近代」(中河伸俊)という論文です。

 

 

鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー

 

 

あれの名はCGP(cross-gendered performance)。日本語でジェンダー交差歌唱という。

以下、引用は「転身歌唱の近代」から。

 

 "男の歌"を女性歌手が歌う、あるいは、"女の歌"を男性歌手が歌うCGPは、いいかえれば、歌のシナリオである歌詞のジェンダーと歌い手のジェンダーとが一致していない歌唱のことである。

 

ようするに、48楽曲によくある「僕」の歌のことです。

あと、これはムード歌謡とか演歌によくあるやつですが、男性歌手が女歌を歌うのもCGPである(小林旭の「昔の名前で出ています」とか、内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」とか宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」とか)。

 

筆者の主に米英のポピュラー音楽についての知見の範囲でも、男が"女の歌"を歌う、もしくは、女が"男の歌"を歌う歌唱の事例を挙げるのはむつかしい。

 

流行歌の世界ではそのことをさす ことば もとくにないほどありふれた事柄であるジェンダー交差歌唱(cross-gendered performance ; CGP)は、比較文化的な視点から見ればじつは、日本のポピュラー音楽のきわだった特徴の一つだといえそうだ。

 

やすすの作品に限らず、今では女性アイドルが「僕」で歌う曲は珍しくない。あれは日本の歌謡曲に特徴的な手法なのだという。

では、なぜ日本の歌謡曲にはCGPが多いのか、どのようにしてCGPがはじまり、ひろがったのか、CGPはどんな効果をもたらしているのか。

といったあたりを、筆者の中河先生は幅広く論じている。興味がある人は読んでください(きっとお近くの公共図書館にもあります)。

ここでは、48楽曲との関係で興味深かった点をいくつか紹介しつつ、ぼくが考えたことを書きます。

 

CGP慣行の語り物起源説

質・量ともに、「CGPがもっとも栄えた時代」は1960〜75年、ちょうど高度経済成長期のころだという。

折しも演歌(a.k.a.艶歌)というカテゴリーが成立した時代であり、演歌の隆盛は、このジャンルで多用されるCGPの隆盛にもつながった。

では、なぜ演歌とCGPはマッチしたのか。

演歌というジャンルに、浪花節や義太夫といった「語り物」の表現法が「隠し味」として加わったことが関係しているのではないか、と筆者は推理する。
当時の流行歌をつくっていた歌手やスタッフは、子供のころから浪花節や義太夫を聞いて育っているから、それが音楽的素養の土台になっていた。

「語り物」というのは、三味線で弾き語りするんだけど、歌うだけじゃなく文字通り語るドラマ部分もある。

 

ドラマの部分で演者が透明なナレーターとなり、そのナレーターの語りに男女の登場人物の発言がはめこまれる。さらに、同じ芸能でも講談や落語の場合と違って、義太夫や浪花節では、男性だけでなく女性も演者になることを認められ、それどころか大きな人気を博してきた(中略)男が女を演じる、もしくは女が男を演じるという演者−登場人物間のクロスは、語り物の伝統の中ではふつうの事柄だった

 

あっ、あっ。と、太字部分を読んで声が出ましたね、ぼくは。(まあ太字にしたのはぼくなんですけど)

正直、浪花節とか義太夫についてまったく無知なので、語り物とは…とか書いてておっかなくてしょうがない自分ですが、たまたま明治の娘義太夫(女性が演じる義太夫)ブームについては知っていた。

日本近代演劇の研究者にしてアイドルヲタ、ケロリンでおなじみ内外薬品の若き社長でもある笹山敬輔先生の『幻の近代アイドル史』を読んでいたからである。

 

 

幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記

 

 

 

 

普通におもしろいのでおすすめである(研究者の書いた真面目な本なので、きっとお近くの公共図書館にもあります)。

この本に登場する日本アイドル界のパイオニアこそが、娘義太夫の竹本綾之助(もちろん女性)である。
12歳でデビュー、23歳まで活動した彼女は「娘義太夫のセンター」、「絶対的エース」であり(笹山先生がこう書いている)、東京に娘義太夫ブームを巻き起こした。このブームこそ、日本の近代アイドル史の第1章なのである。

「ドースル連」と呼ばれた娘義太夫ヲタは、はじめ学生中心、後にサラリーマンや職工が加わり、東京中の寄席を人力車ではしごしたという。今もいますね、現場をはしごするヲタク。
彼らは義太夫の芸というよりは、推しメンからのレス乃至ルックを一番の目当てとして現場に通い、サイリウムならぬ下足札を振り回し、ファンレターを書き、インターネットはなかったので新聞の投書欄でアンチと戦った。

ちなみにドースル連という呼称は、こいつらが曲のクライマックスで「ドースル、ドースル」としょうもないコールを発するからです。他にも「ヨウヨウ」「トルルー」などのコールがあったらしい。マジ意味わからんしキモい。いかにもヲタクって感じです。

明治期に流行した娘義太夫は、現代まで続くアイドル文化の要素をすでに実装していた。そしてそこには、前述の通りCGPもあったのである。

このように、義太夫を含む「語り物」では、CGPはごく普通に行われていた。「語り物」の影響で、演歌その他の歌謡曲でもCGPが一般化した。というのが中河先生の「CGP慣行の語り物起源説」である。
ラジオの構成作家時代、暇さえあればニッポン放送のレコード室にこもって歌謡曲のレコードを聴いていた やすす がこの伝統を継承し、いま48G他のアイドルポップスでCGPが第二の全盛期を迎えている…という、語り物→演歌&歌謡曲→アイドル曲、という流れはわかりやすい。

さらに、明治の娘義太夫ブームを「女性アイドル文化のあけぼの」と見るならば、CGP継承のもう一つのルートも浮かび上がってくる。

日本の女性アイドルは、その草創期から、CGPとは切っても切りれない関係にあった。48楽曲における「僕」の歌は、女性アイドル歌謡の原点回帰なのである。

 

"女心"を歌う演歌と"ヲタク心"を歌うアイドルソング

次の話題です。

ご存知のように、演歌では盛り場や酒場、そこで働く女性が題材となることが多い。

しばしば演歌の女うたのヒロインに擬された水商売の女性は、演歌系歌手の出発点や営業の場でもあったりもしたそうした各地の盛り場で、歌をジュークボックスや有線でかけたり、流しの伴奏やカラオケで歌ったりして、そのプロモートに一役買う人たちでもあった。おそらく、彼女たちに支持されるような形でおミズ系の”女心”を歌うことは、歌を流行らせるのに積極的な意義をもっただろう。

 

二枚目タイプの男性歌手がCGP(”女心”を歌う曲)を歌えば、こうした女性ファンからの「ロマンティックな対象化志向」に加えて、「登場人物の女性への同一化」も期待できる。「一粒で二度おいしい」効果が生ずるというわけです。
インフルエンサーである水商売の女性たちに刺さりやすい、というマーケティング上の効果もCGPは持っていたことになる。

現代の女性アイドルグループが歌うCGP(「僕」の歌)も、歌ってるアイドルちゃんがかわいい、好ち!(ロマンティックな対象化)と、「僕」が自分のことのようでエモい、という二方向からヲタク(圧倒的多数は男性)を殺そうとしている。

このマーケティング手法の起源は、盛り場で歌われた"女心"の歌なのである。

 

女性アイドルは「男の恋」を歌うか

CGPがもっとも栄えた1960〜1975年、男性歌手が歌うCGPは、基本的に恋愛の歌だった。

これに対して、

 

 女性歌手のCGPは、恋愛を歌わない。

 

女性歌手が歌う「男歌」は、恋愛を歌っていなかったという。

じゃあ何を歌っていたか。

"道"です。

 

「男のぞみをつらぬく時にゃ/敵は百万こちらはひとり」(畠山〔みどり〕の《出世街道》星野哲郎・詞》とか、「行くも住(とま)るも座るも臥すも/柔一すじ柔一すじ/夜が明ける」(美空〔ひばり〕の《柔》関沢新一・詞)とか、「流れ流れて東京を/そぞろ歩きは軟派でも/心にゃ硬派の血が通う」(竹越ひろ子の《東京流れ者》永井ひろし・詞)というように、女性歌手のCGP用に書かれた歌詞では、男の"道"、つまり評価されるべき生き方が打ち出される。

 

つまり、ラブソングじゃなくて自己啓発ソングを歌っていたということです。

こういう歌を、あえて女性歌手に歌わせることにはどんな効果があるのか。

たとえば、水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」(作詞・星野哲郎)は、「ぼろは着ててもこころの錦/どんな花よりきれいだぜ/若いときゃ二度ない/どんとやれ男なら/人のやれないことをやれ」と"道"を歌う典型的なやつである。

 

この歌のメッセージを、歌舞伎でいえば立役にあたるような堂々とした男性が歌えば、それは後進や成功していない人に対する成功者の説教となり、メッセージの透明度が下がる。"道"の歌を歌う男性の演者は男性のオーディエンスにとって、"人生"という"大勝負"での想像上の競争相手たりうる存在なのだ。いっぽう、若い女性の演者は、聞いている男性の「男性性」を脅かさないという意味で、理想の「援歌」歌手だといえる。

 

"道"の歌が説教くささを発することは避けがたい。
説教臭を脱臭し、描かれた男性主人公にオーディエンスが自己同一化しやすいようにする。そのための仕掛けこそが、女性歌手による歌唱だったというのである。

だから、女性歌手のCGPでは、恋愛ではなく"道"が中心的なテーマになる。このパターンは、「現在まで連綿と続いているようにみえる」と筆者はいう。ちなみにここでいう「現在」とは、論文が発表された1999年です。

さて、それから20年がたとうとしている現在、女性アイドルの曲では、ふつうに「僕」の恋愛が歌われるようになった。

"道"ではなく、恋愛をテーマにした女性CGPはすっかり一般化した。

ように見えるが、 実際のところどうなんでしょう。

48楽曲で、「僕」の恋愛を歌っているように見える曲は、本当に恋愛を歌っているんだろうか。

恋愛になぞらえて、ヲタクの"道"を歌っているのではないか。ヲタクとしてのあるべき生き方を啓発しているのではないか、とぼくは思う。

「君のことが好きだから」なんかは、完全にそうでしょう(だからこそ、素直に乗れる人にとっては非常にエモいし、ひねくれた人にとっては臭くて偽善的でたまらんわけです)。

あるいは、「言い訳Maybe」とか「青空片想い」とか「ポニーテールとシュシュ」とか「君はメロディー」とか、「僕の打ち上げ花火」とか「Only today」とかいった片恋や横恋慕の歌。
これらも「見返りを求めてはいけない」「報われなくても愛し続けるべし」といったドルヲタの"道"を歌っているのであり、だからこそエモい(当事者的高揚感がある)のではないか。

もちろん、中にはこういう解釈を許さない、リア充感が強い曲もある。
「12月のカンガルー」とか「ラブラドール・レトリバー」とかは、正真正銘の恋愛の歌なのでしょう。「推定マーマレード」とかな。

そうかと思えば、ラブソングを装うことなく、当世風の男(の子)の"道"を正面から歌った「Glory days」「虫のバラード」のような曲もある。

以上を考え合わせますと、ざっくりとした体感でしかないが、48GのCGPは、やはりまだ"道"の歌に偏っている。恋愛を歌った曲も、徐々に増えてきてはいるけれども。*1

"道"の歌から説教臭を抜くという伝統的な機能を十分に発揮している一方、「男の恋愛」を歌う仕掛けとしては、アイドルさんのジェンダー交差歌唱はまだまだ開拓の余地を残している、とぼくは思います。

 

以上、ずいぶん長々と話してしまいました。
他のことは全部忘れてもいいので、名前だけでもおぼえて帰ってください。CGP(Cross-gendered performance)、 ジェンダー交差歌唱です。

*1:恋愛の歌を聴くと、ついアイドルとヲタクの関係を歌ったものと解釈してしまいがちなヲタク特有の認知のゆがみは考慮する必要がある。

「いまを肯定したい君へ」

ナゴヤドームでは昼夜とも下口ひなな席にいた。

 

昼公演のセットリストには、NO NAMEの「希望について」と「この涙を君に捧ぐ」が入っていた。
「のなめナンバーを2曲やって、どっちにもオリメンの三田麻央が出てこないってどういうことだよクソ運営が?!」
キレかけたが、確認してみたら三田さんは今回の総選挙には不参加なのであった。
運営のみなさん、心のなかでとはいえ、クソ呼ばわりしてしまってすみませんでした。

 

 

 

心から喜んでいた三田さんにも申し訳ない。無知による誤解でキレるおじさんとかホント恥ずかしい、ホント気をつけたいです。いいえ、気をつけます。

ところで総選挙スピーチあるあるなんですが、「来年の総選挙では」と言いかけたメンバーが「来年も総選挙があるとしたら」と訂正するくだりが毎回ある。
なぜかはわからないが、「来年もやるという前提で話してはいけない」と運営からメンバーに言い聞かせているのであろう。

メンバーの言葉づかいから禁止語が推察される例は他にもあって、たとえば「ヲタク」がそうだ。彼女たちは必ず「ファンの方」とか「ファンの皆さん」と言う。ヲタクは蔑称だと感じる人もいるからだろう。
だから、5位に入った船長・岡田奈々が、「48グループヲタクの皆さん!」と呼びかけた時には驚いた。会場全体が一瞬、おかしな雰囲気になった。
この変な雰囲気をきっかけに、荻野由佳が変性意識状態に突入。おりから体力の限界を迎えていた松井珠理奈がおぎゆかにチャネリングして暴走したのがあのスピーチであった。ように、ぼくには見えた。

 

松井珠理奈は、「みんなさみしそう」「メンバーがさみしい姿を見たくない」と言っていた。

「AKB48グループは勢いがないと言われてしまうことがある。私たちの世代の頑張りが足りないせいで……」と言う総監督・横山由依。

「新しいグループや輝かしい過去と比べられて、メンバーみんなで悔しい思いをしている時がある」「応援してくださるファンの皆さんの期待にもなかなか応えられていない」と言う高橋朱里。

岡田奈々は、「AKB48のシングル選抜を決める選挙なのに、AKBのメンバーがトップを争うことができない状況が、とても悔しい」と言った。

「全盛期のAKB48と言われていたあの時代を、私が作っていきたいなと思いました」という荻野由佳の発言も、いまの48Gをよしとしていない点では前の三つと共通している。

一連の現状否定的な発言を受けての松井珠理奈の感想が「みんなさみしそう」だった。そして彼女は、後輩たちの否定を否定して宣言する。「今の48グループが一番最高です」と。

もう何日も寝られていなかったそうで、彼女はあきらかにおかしかった。たしかにおかしかった。だからこそ巧妙な嘘はつけないだろう。少なくとも、今の48Gを肯定したいという気持ちに嘘はないだろう。

「全盛期」からグループにいる彼女が、「今の48グループが一番最高です」と言ってくれたのがぼくはとても嬉しかった。

松井珠理奈のスピーチを聞いて思い出したのが、もうずいぶん前に読んだ、雑誌の特集記事である。正確にいうと、その特集のタイトルである。

 

 

クイック・ジャパン100

 

『AKB0048』特集の題名が、なぜ「いまを肯定したい君へ」なのかと言うと、このアニメは伝説(過去)のAKB48メンバーの「襲名」を目指す、まだ何者でもない研究生たちの、「いま」の物語だから、である。
で、物語のなかの「いま」に、現実の「いま」(2012年はじめ)が重ねられているという感じになっている。

ひさびさに読み返してみて気づいたのだが、記事には「取材・文=さやわか」とクレジットされていた。『AKB商法とは何だったのか』という、すごく面白い本を書いた評論家のさやわかさんです。
特集の冒頭についているリード文も、おそらく同氏によるものだろう。これが、1行目からすごい。

もう、僕らには何も残されていないのだろうか?

何もかも、終わってしまったのか?

 

これ、2012年2月の記事なんですよ。「真夏のSounds good!」の年ですよ。ドームコンがあった2012年ですよ?

むしろまだ何者でもないものが、

何者かになるために

努力することがドラマの中心だ。

そして本当はそれこそが、

現実のAKB48の本質でもあるのだ。

 

何も終わりはしないのだ。

過去を受け入れて、未来へと繋げていれば。

彼女たちは、僕たちは、そのために生きる。

終わりを超えて、終わらない物語が、いま始まる。

 

まるで、ナゴヤドームを受けて書かれたかのような文章である。
明敏な人は、この頃とっくに「終わりのはじまり」というやつを感じていたのであろうか。ぼくはといえばまだ劇場公演も見たことがない初心者で、毎日が「AKB48最高(まだ劇場公演に入ったことないけど)!!」でしたけれども。

特集には、やすすのインタビューも収録されている。さやわか氏の「終わらない物語」論に呼応した御大はこう断言している。

 

 

そもそもAKBの面白さって継続性なんです。

 

「秋元康(企画・監修)インタビュー『2012年のAKB48の大きな推進力が、このアニメであることは間違いない』」

 

そういえば横山総監督は、スピーチで「みなさんの日常に寄り添えるグループでいられるように」と語っていた。
とにもかくにも続いていかないと、ファンの日常に寄り添うことはできない。「AKBの面白さは継続性」だから、「日常に寄り添うアイドルグループAKB48」というコンセプトも生まれてくるのである。

 

10回目の総選挙に臨んだ松井珠理奈は全力で48Gの いま を肯定しようとしたのだった。

全力すぎて、変な感じになってしまったのだった。

ぼくは、新しい女王が、自己否定感の強い後輩たちを慮ってくれたことがうれしかった。
もちろん、48Gのいまを否定した後輩たちも、肯定したいからこそ否定したのだということはわかっている。

いつも文句ばっかり言ってるヲタクだって(君のことだが)、本当は いま を肯定したいんだろ?

それがわかっているから松井珠理奈は言った。

「(いまを肯定したい君へ。)いまの48グループが一番最高です」と。

ぼくもそう思いますよ。

宮脇咲良はHKT48のエースでもなく、選抜AKB48のエースでもなく、史上初の「48Gのエース」だと思うし。
向井地美音は前総監督や現総監督のようにはなれないと言うけれど、もしTVチャンピオンが健在で「48王決定戦」があったら優勝すると思うし、ヲタクとしての教養と視野を持った総監督がついに現れるかも、と思うと胸が熱い。

あと、松井珠理奈さん。あなただって、篠田麻里子さんのようにタフなアイドルにならなくていいんだよ。
寝てなくても最高のパフォーマンスを見せるのもアイドルだが、「人は寝ないとおかしくなる」とみんなに思い出させるのだって最高のアイドルだ。むしろ今日的である。

宮脇咲良は指原莉乃にはなれず、向井地美音は高橋みなみにはなれず、いまのAKB48はあの頃のAKB48にはなれない。誰も自分以外にはなれないが、それでも何かが受け継がれていく。

 

 

 

 帰り道、金山から尾頭橋まで移動するのに3回電車を間違えた。酒は飲んでいなかった。
あの日は何かがどうかしていたと思う。ドーム球場の気圧がどうかしていたのかもしれない。

(メンバーのスピーチはモデルプレスと朝日新聞デジタルの起こしを参照しましたが、自分の記憶にしたがって微調整したので、間違っている部分は筆者の記憶違いです) 

 

 

 

 

 

ぼくからのお知らせです

13期ヲタのみなさんにインタビューさせていただいて、それをまとめた記事が、ほぼ月刊48ジャーナルWebさんに明日から掲載されます。

www.48journal.com

 

タイトル通りの内容なんですが、目次を紹介しておきますと、

 

第1回 「はじめに / AKB48劇場御中 / 野田組 / 佐藤妃星生誕祭」

第2回 「光と影の夏 / #13期オタ会 / 北澤早紀 / もう、これはできないな。」

第3回 「ぶちかませ / 「企画書片手に乗り込んできましたよ」 / 開演 / 「秋元さんって、あんな顔するんだ」

 

こんな感じです。

また、この記事の関連企画で、ニコ生配信もやります。

live.nicovideo.jp

 

アイコンには触れないでください。

こちらは13期ヲタのみなさんをお招きして、記事には書ききれなかったお話などもうかがえればと思っております。アイコンには触れないでください。

どちらも、13期の話というよりも、48Gの未来の話をしたつもりですし、するつもりです。

ご高覧のほど、よろしくお願いいたします。

 

恋愛禁止ルールを設けるのは誤りであることの神学的論証

1.教条的な論証

アイドルは恋愛をしない。

ありえない行為を禁止することはできない。

よって、恋愛禁止ルールを設けるのは誤りである。

 

2.実質的な論証

恋愛禁止ルールがなくても、「アイドルは恋愛をしない」という信仰にもとづいて活動するアイドルはおり、その姿勢を支持して応援するファンもいる。

恋愛禁止ルールがなくなっても、「アイドルは恋愛をしない」という信仰をもつファンはいなくならないし、その期待にこたえようと考えるアイドルはかならずあらわれる。

「アイドルは恋愛をしない」という信仰は、恋愛禁止ルールがなくても市場原理によって守られる。

むしろ、恋愛禁止ルールは「恋愛は自由」という市民社会の良識と信仰との摩擦を高める逆ローションの役割を演じてしまっている。

恋愛禁止ルールは、「アイドルは恋愛をしない」という信仰の市民社会への侵犯ととらえられ、信仰自体への攻撃を誘発しているのである。

日本の人権、まだ歴史が浅いし競技人口も少ねぇから「人権とか弱い」って思ってるやつ多いけど、本場の人権はヤバい。超強い。黒船が来たらマジ一発でやられる。

よって、恋愛禁止ルールを設けるのは誤りである。

 

3.情緒的な論証

恋愛禁止ルールがあるから恋愛をしないアイドルと、「アイドルは恋愛をしない」という信仰を共有できるアイドルと、どっちを推したいのかって話ですよ。

ぼくたちの好きな投票

時節柄、今日は総選挙の話をします。

 

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2005年12月8日の『日刊スポーツ』より。

この記事を見て、「あーやっぱり48Gは最初から投票だったんだなあ」で済めばいいのだが、そうも行かないという話である。

劇場オープンより四ヶ月前、7月末に発売された雑誌の連載コラムで、やすす秋元康は「秋葉原48シアター構想」について書いている。

 

 劇場兼カフェには、一軍二十四人、二軍二十四人のアイドル予備軍がいて、ウェイトレスをしながら客の人気を獲得し、ステージの主役を射止めるのである(全員が、ウェイトレスをするわけではない)。

「秋元康のヒットの予感」『WiLL』2005年9月号、ワック・マガジンズ

 "萌系"のファンが、自分の贔屓の女の子を応援してスターに仕上げていく、アイドル育成シミュレーションゲームのリアル版だ。

同上

 

「"萌系"のファン」というあたりに時代を感じますね。

このコラムは、やすすのAKB48についての発言としては最初期のものの一つである*1。どういうわけだかAKB48公式ブログに全文が転載されているので、興味のある方はどうぞ(リンク)。

このコラムで、やすすは一軍二軍制度と言っているだけで、投票があるとは言っていない。その後、12月に劇場がオープンするときには、「ファン投票」による一軍二軍の入れ替え制が実施されることになっていた。

……のだが、この制度は結局実行されなかったのである*2。翌年の2月に2期生17名を採用したAKB48は、一軍と二軍の入れ替え制ではなく、チームAとチームKの2チーム制による公演をはじめたのはご存知の通り。

 

人気投票を越えて―真のネットアイドルAKB48

初期のAKB48には、劇場のロビーでファンとやすすらスタッフが対話し、ファン発のアイデアが運営に取り入れられていくという、濃密な作り手と受け手の双方向関係ができた(過去記事参照)。

「アイドル育成シミュレーションゲームのリアル版」にファンが参加する手段として、当初考えられていたのは人気投票だった。ふたをあけてみると、投票制度に頼らなくても意思表示ができ、アイドル育成に参加できるヲタクがそこにはいたのである。

 

僕はパッケージを作っただけで、発火させたのはメンバーと劇場に来てくださるお客さんです。アイドルオタクは暗いなんていうけど、僕からみたら、アンテナが立っていて、情報発信力もある。なにより行動的だと思いますよ」

「秋元康さんがプロデュースするアキバ発アイドル「AKB48」!」『Hanako』2006年11月23日号

 

情報発信力と行動力に優れたヲタクとの出会いを経て、やすすは参加型アイドルとしてのAKB48の特色、強みをつかんでいく。

 

――少し前はモー娘。やグラビアアイドルが盛り上がってましたけど、ちょうど今、女の子アイドル界がトレンド的に無風状態で。そういうタイミングは意識されましたか?

「いやぜんぜん。グラビアアイドルとかぜんぜん知らないし。アイドル界全体のこととかまったく意識してないね。唯一ちょっと考えてたのが……。ネットアイドルって、いろんなところがやっては失敗していたんだけど。だいたい人気投票をやってそれの1位のコがデビューできる、みたいな。それってぜんぜんインターネット的じゃないんだよね。一方向的で、テレビの発想とぜんぜん変わらない。受け手側の意見は量でしか還元されてない。そうじゃなくて、彼ら(引用者注:AKB48のファン)は双方向で好き勝手にやりとりしていて、その状況の中から生まれるアイドルがいるとしたら、それがネットアイドルだと思ったんだよね」

「総合プロデューサー 秋元康インタビュー」『48現象』ワニブックス、2007年

 

ファンが投票し、その結果に運営がしたがうことにすれば、とりあえず「ファン参加型ですよ」とかっこうはつく。投票とはそういう安直な手段だとも言えるが、ファン参加というめんどうなことを可能にするには他に手段がないことも多い。

ところが、AKB48では、投票に頼らなくても運営・やすすとヲタクとのコミュニケーションが成立してしまった。だから、もう投票は不要になったのだ。

と、いうわけにはいかなかった。

 

 48Gにとって投票とは何か

 

 おニャン子との一番の違いは、「一方通行か双方向か」という点。当時おニャン子で作られたユニットは、テレビ局やレコード会社など"おとなの事情"でした。でもAKB48は、我々が「こういうことをします」とアナウンスすると、ファン同士がすごい勢いでブログや2ちゃんねるで盛り上がる。そこから面白い意見を吸い上げて、反映させていくわけです。例えばスタッフから「みんなが秋元さんが選ぶ"選抜"に不満だらけですよ」と聞くと、「じゃあ"総選挙"だ!」という具合に。劇場のオープン当時は、ロビーで僕が直接ファンの感想や意見を聞いていました。本当の意味で"インタラクティブ"に作っていたんですね。

『日経エンタテインメント』2010年10月号

 

秋元:人数が多いものですから、CDのジャケットやテレビ番組に全員を出せないんですよ。そのメンバーを、プロデューサーであるぼくがピックアップしていたんですけど、ファンの皆さんからのブーイングがすごくて。

山田:"なんで、あの子を入れないのか!"って?(笑い)

秋元:そういうのがあって(笑い)、じゃあ、年に1度、オールスター戦みたいに皆さんの投票で決めよう!と。

山田美保子「山田eyeモード」『女性セブン』2010年5月13・20日合併号 

 

前田敦子をセンターにすると決めた頃、劇場のロビーに座ってファンに話を聞いたんですが、毎回「秋元さん、なぜ前田敦子なんですか」「なんであの子は入らないんですか」とすごく言われました。じゃあオールスター夢の球宴みたいな人気投票をやろうと。 

秋元康×田原総一朗『AKBの戦略!』アスコム、2013年

 

投票という「受け手側の意見は量でしか還元されてない」やり方ではなく、「ロビーに座ってファンに話を聞」くという、「本当の意味で"インタラクティブ"」なシステム。

やすすはヲタクの声に耳を傾け続けた。そして、ヲタクの声に応えようとした。

その結果、捨てたはずの投票制が蘇ってしまった。それが「総選挙」だったのである。

 

今までテレビとともに歩んできたんで、今度は真逆のことをやってみようと。

「総合プロデューサー 秋元康インタビュー」『48現象』ワニブックス、2007年

 

やすすがAKB48をはじめたのは、「テレビとは真逆のことをやりたい」と思ったからである。

投票によってメンバーの序列を決めることは、テレビ的な方法である。そこには受け手の意見は量でしか反映されておらず、視聴率や得票数といった「量」を持っている演者が高く評価されるシステムだからだ。

「テレビとは真逆のことをやろう」という、やすすの初志からすれば、投票制の導入は妥協であり、反動である*3

では、「総選挙」をはじめたこと、今も続けていることは間違いなのか。

紅白への出演や雑誌グラビアへの起用、その他もろもろのなんちゃら選抜……と、メンバーへの仕事配分の何割かがヲタクの投票によって決められているのは間違っているのか。

そうは言えないからめんどうなのである。

「アイドルオタクは暗いなんていうけど、僕からみたら、アンテナが立っていて、情報発信力もある。なにより行動的だと思いますよ」とやすすは言う。

たしかに、クリエイティブで存在感と影響力のあるエリートヲタクには、投票制度など必要ないかもしれない。

だが、暗くて、アンテナが立っていなくて、情報発信力もなくて、行動的でもないヲタクはどうか。

彼ら静かなる多数派は、「総選挙」によってはじめて意思表示の機会を得たのではなかったか。

投票によって、48Gは反動化するとともに民主化したのである、と私は思う。

「国民的アイドル」が民主的なのは結構なことである。じゃあ「総選挙」に「YES」でいいのか?と問われると、よくわからない。

(以上敬称略)

 

 

 

 

*1:というか、筆者はこれより古いものを見つけられていないので、ご存知の方は御教示ください。

*2:週刊プレイボーイ編集部・編『AKB48ヒストリー研究生公式教本』(集英社、2011年)には、《創成期、劇場には人気投票のための機械が置かれていたことも》との記述があるので、投票自体は行われたらしい。この投票は、カフェ店員だった篠田麻里子のメンバー抜擢に影響していたのだろうか。ここらへんも、古参ヲタの方の御教示を乞いたいところです。

*3:「年に1度」「オールスター戦」という言葉に、「あくまで例外として許容するにとどめたい」という気持ちが現れているようにも思える。

もえたんとうめたんの舞台

 

3月に卒業するもえたん相笠萌、うめたん梅田綾乃の舞台出演が決まったそうですね。

五反田タイガー 1st Stage 全情報公開‼

劇団TEAM-ODACから派生した女性劇団 遂に始動!!

歌って踊って、お芝居して!?
キャバレーのように華やかでショーのような作品、
また来たくなるような空間をコンセプトに
女の強さ、弱さ、優しさ、色気、裏の顔など、
普段見せない女の本音を笑いと感動で描いていく、
とびっきりのエンターテイメント!

新宿村LIVEにて STAGE ON!

 

 TEAM-ODACといえば、48Gメンバーなどのアイドルを起用した舞台で我々ヲタクにはおなじみ(最近だと『僕らのピンク スパイダー』とか)。そこからスピンアウトした女性劇団の旗揚げ公演で、うめたんはどうやら主演らしい。

五反田タイガーの宣伝文↑を読んでいて思い出したことがある。

前にも書いたことだが、のちにAKB48となるプロジェクトを着想した当初、やすすがやりたかったのはアイドルではなくて小劇団、お芝居だった。

一番最初の思いとしては、少女たちのお芝居を毎日やりたかったんです。でも、お芝居で毎日毎日やって持つだろうかと。それで、パフォーマンスするものが歌になり、アイドルグループになり、「会いにいけるアイドル」というコンセプトができあがっていったんです。

「秋元康(AKB48総合プロデューサー)ロングインタビュー」『クイック・ジャパン87』太田出版、2009年

最初はお芝居をやろうとしたけれど、毎日同じ演劇では飽きてしまうので、プログラムを変更できる歌とダンスのショーにしました。小さいけれど華やかで楽しい、パリの「リド」や「クレイジーホース」のような小劇場を目指しました。

「オリジナルの自信と呼びこむ魅力があれば、「メイド・イン・ジャパン」は復活する」『SAPIO』2011年1月26日号

リドやクレイジーホースというのは、パリの超有名なキャバレーである。日本のキャバレーは女性が接客してくれる酒場だが、本場のキャバレーは舞台でのパフォーマンスを楽しむ大人の社交場的なやつなのである(らしい)。

ちなみに、先日のこじまつりでは、「誕生日TANGO」→「シャムネコ」→「ヴァージニティー」のくだりで「大好きなパリのショー『クレイジーホース』のような世界観」を目指した――と、こじはる小嶋陽菜は言っている(今日売りの「AKB48グループ新聞」2017年3月号)。

小劇団やキャバレーの文化がやすすに影響を与えて、AKB48を生んだ。AKB48をきっかけの一つとしてアイドル文化が盛り上がると、今度は演劇界がアイドルやアイドル経験者を活用しはじめた(たとえばTEAM-ODACのように)。

その流れで、もえたんとうめたんは新しいスタートを切る。AKB48劇場の板の上で経験を積んできたふたりにぴったりな舞台のようで、楽しみです。

五反田タイガー 旗揚げ公演 featuring コモンシェア株式会社 『Tokyo Community Life』のチケット発売は明日、3月18日(土)の AM10:00からとのこと。何卒よろしくお願いいたします。これが言いたかった。

(以上敬称略)

 

 

正義より、クリエイティブをぶちかませ

伊藤麻希さんに感心してしまった 

 

 

LinQの伊藤麻希さんがリング上で松井珠理奈と秋元康を挑発したと聞いて、いいなあと思ってしまった。これはやすすの大好きなやつだ。48Gの若手は見習ったらいいのになと思う。

 

やすす秋元康は、かつて小野恵令奈(AKB48のOG。2006〜2010年に在籍)を絶賛したことがある。

 

こないだチームAの公演を見に行っていたら、たまたま小野と小林〔香菜〕が見学に来てたんですよ。で、本編が終わって暗転したときに、お客さんが"えれぴょん、アンコールよろしく!"、その2秒後に小野が"アンコールいくぞぉ!!"って……!

「総合プロデューサー 秋元康インタビュー」『48現象』ワニブックス、2007年

 

 「って……!」という表記……! やすすの「熱」を伝えたいというインタビュアーの意思を感じる。それほど感心していたのだろう。

 

普通絶対できないんですよ。まず先輩であるAのメンバーに気をつかう。それから照れ。あとスタッフに許可をとらなきゃとか……。僕は30年この仕事をしているけど、あの状況で2秒で言えるヤツは絶対いなかった。あれはあの瞬間あの場所にいないと見れない。神ですよ。

同上

 

だって自分の書く小説とかより、小野の‘’アンコールいくぞぉ!‘’のほうが面白いもん

同上

 

 私たちは、秋元康を「仕掛け人」扱いする思考に慣れている。AKB48Gも、「仕掛け人・秋元康」が操っているプロジェクトだと。

 そのやすすは、しかし、自分の書く物語より、小野恵令奈のアンコール発動のほうが面白いと言っているのである。

 

――〔仕掛け人〕というと、自分でいろいろ計画して意のままに動かす人って印象ですけど……。お客さんからのフィードバックにしろ、現場でのハプニングにしろ、今、秋元さんはあえて自分がコントロールできないモノを求めて、楽しんでいる感じですね。

「そうだね。だからファンの人に"どうなってるんだ!?"ってよく聞かれるんだけど、"いや、僕もわからない"っていう。本当にそうなんだよ。[…中略…]スタッフが"どうしましょう?"って来て、"えっ、そんなこと起こるの!?"ってビックリする瞬間が、いちばん大変だけどいちばん楽しい」

同上

 

高校時代に放送作家として仕事をはじめたやすすは、AKB48をはじめた47歳のときには30年のキャリアを積んでいた。フリーランスで30年生き残っただけでもすごいし、その間には誰もが知る大ヒットをいくつも生み出している。おそらく、この頃には「どんな企画でも、その気になれば必ずヒットさせられる」という自信を身に付けていたはずだ。

だからこそ、自分で考えることから何が生まれるかはだいたい予測がついてしまう。やすすの大嫌いな予定調和だ。

AKB48には、自分では考えつかないようなことをやってくるメンバーがや客がいる。自分が考えることより面白いことに出会える。だから、AKB48はやすすにとって楽しかった。

 

そこからエンターテイメントが始まると思うからね。みんなびっくりしたいっていうか、予測を超えたものが欲しいんだと思うよ。それが一番面白い。

同上

 

なぜやすすは755が好きなのか 

 

やすすに驚きを与えてくれるのはメンバーだけではなかった。

 

例えば「大声ダイヤモンド」で「好き」って歌う時、観客も全員で言うわけですよ。AKB48と一緒に「好き」を観客が言うだろうなんてことは、僕はまったく想像してなかったんです。昔だったら、たぶんこうなるだろうなっていうことを想像して作っていたんですよ。例えばとんねるずに「雨の西麻布」っていう曲を作れば、雑誌で西麻布特集が組まれるだろうな、とかね。AKB48の場合は本当に予測がつかないから。「スカート、ひらり」って曲で、「世界で一番好きなの♪」だけ全員が何故か大声で叫ぶとか。

「秋元康(総合プロデューサー)ロングインタビュー」『クイック・ジャパン87』大田出版、2009年

 

 

「世界で一番好きなの♪」は、たしかに意味がわからない(誰が得するんだろうと少しだけ思う)。だからこそ、「ヲタクすごいな」とも感じるし、はじめて聞いたときのやすすの驚きも想像できる。

 

AKB48劇場のこけら落としで「チームA 1st Stage『Partyが始まるよ』」という公演をやったときです。最後に「桜の花びらたち」という歌を歌を歌って、花びらがパーッと散る。それを暗転の間にスタッフがモップで掃除するんです。ところが、すぐ「モップ! モップ!」と、掃除をうながすモップ・コールが自然発生的に始まった。

秋元康・田原総一朗『AKB48の戦略!』アスコム、2013年

  

ネットの書き込みで、"1AKB"って言葉が出てきたから何かと思ったら、当時チケットが千円だったから、"1AKB=千円"で単位ができていたり。お客さんからいろんなものを発信しはじめていた。あともちろん、公演の内容とかメンバーについてもブログとかでいろいろ書いてくれていて。あ、これはいける! と

前掲『48現象』インタビュー

 

 やすすは、自分では決して思いつかない何かを発信してくれるファンとの対話を重視した。まだ劇場がオープンしてしばらくの間は、ロビーでファンと立ち話もした。

 

今も同じですよ。劇場で生の声を聞く機会が減ったというだけで、ファンと見えないところで会話をしているんです。例えば、僕は基本的にブログや2ちゃんねるは見ないんですけども、スタッフが面白いの出てますよってプリントしてくれるんですね。それを僕が「聞く」。その繰り返しでできあがっているのが、AKB48なんです。 

前掲『クイック・ジャパン87』インタビュー

 

毎日公演をやっているから、お客さんからネタが出てくると、すぐにリアクションできる。すぐ実現できる。それが強みですよね。テレビよりラジオに近い感じだね

前掲『48現象』インタビュー

 

 その後も、やすすはぐぐたすにアカウントを作り、一時はファンのコメントに熱心にレスポンスしていた。最近は深夜から早朝にかけての755に出没している。どんなに忙しくても、原稿が遅れても、ファンとの対話を続けたいのだ。ファンからの 「ネタ」、「リアクション」を待っているのである。

 

やすすはファンのクリエイティブを待っている

 

やすすは、ファンと「合作」したがっている(もちろん、メンバーやスタッフとも)。これは間違いない。

 

ファンが、自分で場を作ることがおもしろいんです。

前掲『AKBの戦略!』

 

アイドルファンっていうのは、みんな、それぞれ理想像があって、一人一人がプロデューサーなんですね。

前掲『クイック・ジャパン87』インタビュー

 

やすすは、ファンのクリエイティブを待っている。

 

本当のサプライズはお客さんが作ります。

「仕掛け人・秋元康氏が語るSKE48の"真の野望"とは?」『SPA!』2010年3月30日号

 

やすすは、自分が40年かけて築いた経験知とおなじくらい、ファンの感覚を信じている。

 

人間は経験則で生きるので、ファンが自分の予測とは違うところで反応したのはたまたまで、それは誤差だと思いがちなんです。でも、僕は、"そっち"だと思うんですよね。AKBは"そっち"を大事にしたいんですよ。

前掲『クイック・ジャパン87』インタビュー

 

この言葉、しびれませんか。ぼくはしびれた。

"そっち"を信じるやすすの信念がなければ、TDCホールでの13期公演などありえなかったと思う。

(やすすの決断によって13期公演開催が急転直下決定にいたったことについては、企画実現に向けて動いてきた13期ヲタ有志の方々への取材による。その詳しい経緯についてはまた別の機会に書くつもりです。)

 

たしかに、いまの48Gは「お客さんからネタが出てくると、すぐにリアクションできる。すぐ実現できる」という環境にはない。

(ファン有志による13期公演の企画書も、劇場支配人に届くまでに○ヵ月かかったらしい。このあたりの経緯についても、また別の機会に。)

 

それでも、やすすがファンと「合作」したがっていること、やすすがファンのクリエイティブを待っていることは間違いない。やすすの言葉を素直に読めば、そう考えるほかはない。

ヲタクは意外とやすすの言葉を読んでないんですよね。いや、いいんですよ。メンバーのヲタなのであって、やすすのヲタではないのだから。私はやすすのヲタでもあるので、やすすの言葉にとても興味がある。そして、やすすの言葉を読んで、ある種の「誤解」を取り除くことが、48Gのメンバー、ヲタク、スタッフにとってプラスになると考えている。だからこうしてやすすの言葉を紹介しているわけです。

 

ともかく、やすすは一緒に面白いことをやりたいのだ。ファンやメンバーから「おもしろいこと」を発信してほしいのだ。

 たとえば、755で「新公演はどうなったんですか」と詰問するのは正義である。やすすは新公演書くと約束した、なのに新公演書かない、だから新公演書けと要求する。正義ではあるが、クリエイティブは皆無である。

こういう言葉が、やすすに刺さるだろうか、と疑問に思ってしまうわけです。

いや、正しいんですよ。やすすが約束して初日の日程を決めて新聞広告まで出したのに新公演を書かないんだから。「約束を守れ」と言うのは正しい。正しいがしかし、正義の味方がクリエイティブであることはまずないのだった。正義の味方の役目は悪者のおもしろい企画(世界征服など)を潰すことです。

やすすが猛烈に新公演を書き始めることがあるとしたら、それはファンの正義の怒りが爆発したときではなく、ファンのクリエイティブをぶちかまされたときだと思う。

13期メンバーとそのヲタたちは、ぶちかました。そしてやすすを動かした。私もぶちかましたい。